日が落ちるのが随分と早くなった。
少年の背後。文化祭前に業者が入ってワックス掛けをした、ぴかぴかに磨かれた廊下に落ちる西日が
眩しい。麻衣は目を細め、いっその事、視界を閉じてしまおうかという思いに駆られた。だが、見え
ないのも怖い。
美貌の少年はぞっとするほどの無表情でこちらを見ている。それを石垣はじっと睨み付けていた。
何だこの状況。
「麻衣、帰るぞ」
その言葉に石垣は眉を吊り上げた。
「弟が姉を呼び捨てする訳?」
「あなたには関係のない事です。麻衣が嫌がっているというのなら考えますが」
爽やかスポーツマンであるはずの石垣が苦々しい表情で舌打ちした。
それを横目で見た麻衣は人を逆上させる天才だわ、止めるではなく考えるのだな、と嘆息する。
存外に嫌がっていないと言いたいのだと、麻衣でなくとも分かる言い回し。
「渋谷、谷山が迷惑だとは思わないわけ?」
今日は一緒に帰りたくないと伝えようと口を開いたが、それより先に石垣が吐いた言葉に麻衣はぎょっ
とした。
確かに彼の所業は迷惑でしかないが、それは石垣の口から出るべきではない。
というか、君も十分迷惑だ。
少年は美貌を歪めることもなく小さく首を傾げて見せた。
「何が迷惑だと?」
「人目があるとこであんなことするとか、何考えてんだよ。谷山が嫌がるとか騒がれるとか思わねぇ
の」
「例えそうだとしても、あなたには全く関係の無いことだ」
どちらも正論である。だが、関係がないと言われた石垣は鋭い視線で少年を見下ろしている。
え、ホントになんなのこの状況。
麻衣は引き攣った笑みを浮かべて視線を床に落とした。
逃げたい。
まるでヒロインを取り合う少女マンガのような構図だが、残念な(いや、幸いか)ことに片方にその気
はない。はずだ。
さて、この状況をどうするべきか。
逃亡を企てる麻衣の視界に、少年の背後から緊張感のない聞き慣れた声が掛かった。
「おやおやどうしました?」
にこにこと。
この状況を理解した上で楽しんでいるとしか思えない笑顔の安原を睨めつけながら麻衣は唸った。
何というタイミングの良さ、いいや悪さか。
「谷山の取り合いなら僕も混ぜて頂こうかな」
「安原!」
「違うの?」
「違うに決まってるでしょ?!っていうかあんたも面倒な事言うなっ」
「えーだって僕だって谷山のこと好きだしぃ」
「うそつけ!気持ち悪い!もおおめんどくさいっ!あたし帰る!!」
安原の登場は面倒ではあるが、この状況を打破してくれるものではあった。
憤慨している麻衣はそのままの勢いで足音荒く歩き出し、美貌の少年は安原に軽く頭を下げてその後
を追う。
それを無意識に追おうとした石垣を、遮るように上げられた安原の右腕が制した。
「おい…」
「石垣〜しつこい男は嫌われるよぉ?」
「安原…お前、なにがしたい訳?」
「何がって何が?」
こちら反応を楽しんでいるとしか思えない。にやにやと、心底面白いと思っている表情に苛々としつ
つも、石垣は一つ息を吐き出して落ち着こうと試みる。
「邪魔してるようにしか見えないんだけど?」
「そう?」
にこにこと。神経を逆なでするその表情。
安原、と苛立った声を上げれば、彼は静かに表情を変えた。
「あの場面は誰がどう見ても谷山の助けに入るでしょ?僕は女の子の味方ですし?」
「…何で疑問形だよ」
「さっきから君は何で何でと煩いなぁ」
さて帰ろ。鍵掛けるから出て、と歩き出した安原は憮然としたままこちらに歩んできた石垣の肩を擦
れ違い様にぽんと叩き、僅か上にある彼の耳元にぽつりと声を落とした。
「そんなんで谷山がなびく訳ないだろ」
冷ややかな声にぞっと背を凍らせる。安原が鍵を掛けてその場を離れた後も、彼はその場に立ち尽く
した。
ずんずんと歩く麻衣の背に立ち上る怒りを感じながらくつりと笑う。
自分の心をくすぐるのは研究分野の調査資料や研究対象者だけで、全く世界が違うとさえ言い切れる
彼女を面白いと思うなど。今までの彼には有り得ないことだ。
分かりやすい反応を示したかと思えば、理解に苦しむ反応を見せる。
「着いて来ないで!」
「…行き先は同じだろう」
喧嘩した彼女のような言い回しだなと冷静な頭の片隅で思いながらも、麻衣は荒く言い放ったが、彼
からは冷静な言葉と呆れたような嘆息が返ってきた。
「…なんで、あんなことしたの」
「さあ」
「さあってなに?!君は意味もなくキス出来る子なの!」
激昂した麻衣に対し、振り返って睨んだ弟の顔はひどく冷ややかで麻衣の感情を更に逆なでた。今日
一日、散々この弟に振り回された気がする。
「黙らせようとおもった?」
「まあ、そうだな」
「へぇえ。安いキスだね!」
「等価交換。それとも麻衣の初めてはそんなに価値がないのか」
「なななななんではじ…」
「違うとでも?」
うっすらと意地悪く笑んだ少年は美しい。その美しさにひどく怒りを覚えた。
「っ!ほんっと!ナルは人を怒らせる天才だよねっ!」
「どうも」
「今のどこをどう取ったら、どうもっていう返事になるの?!」
「天才というフレーズ」
「〜〜っ!」
聞いたこっちが馬鹿だった!
麻衣は心中で自分自身に罵倒し、そのままずかずかと歩みを進めた。
振り返れば、無表情で有名な美貌の弟が肩を揺らして笑うという貴重な場面を目撃出来たのだが、残
念なことに麻衣は正面を睨み据えたままであった。
「あなたたち、喧嘩でもしたの?」
まだ馴れない自宅に戻ると(ずんずんと進む足はバス停を過ぎて馴れたアパートへと向かっていた)忙
しい母とマーティンが珍しく揃っていた。
四人での夕飯を済ませ、マーティンとナルは長ったらしい題名の論文がどうのと書斎に向かい、片付
けを済ませた母と麻衣はリビングでバラエティ番組を観ていた。
「…何もないよ」
「麻衣はナルくんの事苦手だけど、私と先生の前では悟らせないようにしてたじゃない」
それが今日はなかったわ、と続けた母に、麻衣は鋭いなぁと息を吐いた。
苦手にしている事も気付いていたのか。
「母さん、いつまでマーティンのこと先生って呼ぶの?」
「仕方ないじゃない、先生は先生なんだもの…って。ごまかそうとしてる?」
「あーうん」
「聞かれたくないのね?」
「うん」
「それは自分で解決出来る事ね?」
「はい、自分でなんとかします…」
「今後、食卓であんな表情しちゃダメよ」
はあいと返事を返してからマグカップに残された温いミルクティを飲み干した。
勝利者は誰か
お待たせしました…!黒い人たちが姉を怒らせる回でした。
青春の思い出ネタは
こちら まで
2011.02.03 姉と弟の恋模様